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今、感じている違和感とは

なんだ自分は

「なんだ自分は」
毎日、何をやっても楽しくて、家族にも恵まれ、とても平和だった。正確に言うと、僕が見ている世界は平和なように見えた。いつの日からか、僕が見ていた世界というのは、すごい小さな世界で、まだまだ多くの世界が存在していることに気がついた。そしてその世界は、実は繋がっていて、僕たちが平和に見えた暮らしっていうのは誰かの犠牲の上に成り立っているということを知る。しれば知るほど社会っていうのは複雑に絡み合っていて、ちっぽけな自分一人では何もできないことに気づく。

ある調査によると世界で生産された食品の約3分の1が捨てられているという。一方で、世界では約7億人が飢餓に苦しんでいる。それは11人に一人が飢餓に苦しんでいる計算になる。目の前で食べ物を残す自分がいる。
世界では未だに紛争が起こっているらしい。そこでは多くの若者が紛争地に向かう。子どもが兵士として加わることもある。教育の機会も奪われる。戦いは憎しみを生み、再び殺し合いは続いていく。どこか他人事の自分がいる。
現代社会に生きる僕たちは、物を買う時に、いかに質が良く、そしていかに安いかを基準として、購買行動を行う傾向がある。その結果、世界のどこかでは安い賃金で働かされたり、時に法外に子どもが働かされることもある。それでも安いからという理由で、物を選ぶ自分がいる。
東日本大震災後、放射能汚染が広がった。10年が経とうとする今日、未だに故郷に帰れない人がいる。目に見えない放射能は街を腐敗させ、人と人との関係性を根こそぎ奪い、日常までも奪った。リスクと隣り合わせの原発からできた電気を使ってヌクヌク暮らす自分がいた。
日本ではうつ病や、躁うつ病などの気分障害で治療にかかる人は年間120万人いるという。自殺者は2万人を超えている。それは1日に50数名の方が自ら命を絶つという計算になる。多くの人が心の病気だけでなく苦しんでいる。彼ら/彼女らにたいし気の利いた言葉すらかけられない自分がいる。

なんだこの世界は。なんだ自分は!

クソみたいな社会。クソを作っている僕。クソみたいな社会を忘れてしまう僕。何もできない僕。でもここに命がある僕。
なんだ自分は。

矢部寛明

普通ってなんすか?

「普通ってなんすか?」
違和感かーー難しい問いだよねーー(笑)そう言われると違和感だらけの毎日を過ごしているよねー。違和感って感覚でいうと僕の中ではピリっとか、モヤっとか、スッキリしないイメージがあるのだけど、最近楽しいのは違和感を感じた時にそれが生じた理由をひたすら考え続けること。違和感って全員が違和感と思っていたらきっとその事象は生まれてこないはずで、誰かにとってはスマートなことが誰かにとっては違和感として残る。じゃあ、自分がモヤっとしたのは一体なぜなんだろう、そしてそれが生じている意味はなんだろう、ということを多角的に考えてみると結構スッキリしたり。そんなにスッキリ回答が出なくてモヤモヤのまま人に投げて返球を見ることも結構好きですね。
という違和感との向き合い方は一旦置いておいて、本題の今感じている違和感に戻ると、当たり前とか普通と言われることに疑問をもたずに過ごしている人が多いことかな。当たり前とか普通という言葉は昔からあまり好きではなかったかも。なんか誰しもが言う言葉とかって、全然ワクワクしないし面白くないよね。そしてそれを平然と語る人は一体なんなんだろうと思ったり。そう思ってちょっと反対のことを言ってみたりやってみたりすると、自分の中でも新しい価値観が生まれて、周りからの評価も変わる。良い評価と悪い評価と両方ありますが。でも自分に置き換えてみても、初めて会った人がありきたりなことを言うより、初めて聞くようなことを言っている方がよっぽど信頼できる。そう思うと、小中高生とも関わっていて、他の大体の人が言うようなことの反対を言ってみることを大事にしていて、そうすると結構興味持ってもらえたり。自分の本心は後でゆっくり考えれば良いので、一旦反対のことを考えてみたり言ってみたりすることが多いです。そうすると自分の価値観も広がるし、周りとの信頼関係も変わるので、もっとみんなやったら良いのに、というのが違和感、かな?ちょっと話違う?(笑)でもそれを実現するためには、ある意味どれだけ世の中の普通や当たり前と言われることを熟知しているか、それを客観的に捉えることができているか、それは常に人との対話の中でも模索しているし研究しています。結構楽しいのでオススメです(笑)

成宮崇史

”社会”というないものの見方

自分が一番最初に感じた違和感?は自殺やうつ病といった問題。違和感というか、「なんでそんなことがおこるんだろう?」という感じ。それは今でも変わってないですね。
生きていて、楽しいことばかりではないし、理不尽に何かが奪われることもある。それでも笑えるようになる人もいれば、ずっと暗い顔をしているままの人もいる。生きる目的や意味を見出せる人もいれば、それが分からなくなってしまう人もいる。いずれも、周りの環境によってそうしたものが築かれていくのだとしたら、何が違うのか。
そこから行き着いた先が”社会”と呼ばれるもの。人は”社会”に影響されて、”社会”の中で生きて、”社会”を創っているから。でも社会ってなんなの?ていうのが全然わからなかった。いまでもまだよくわかってない。「こんな社会だから」とか、「社会を変えるんだ」とか、よく耳にするけど、見えない、触れない、感じられているようで感じられていない。そんな感覚。社会そのものへの違和感というより、”社会に影響されている””社会を相手にしている”っていう考え方に違和感があるのかも。でも、その社会(らしきもの)を少し切り分けて、家族や学校、会社や日本って捉えると、少し見えてくる。家庭や教育、企業の風土や生まれた国のあり方って、自分の中のあるべきが作られやすい環境だと思うし、特に幼少期にどんな環境で育つかは人に大きな影響を与えると言われている。でもそれにしては家族は単一で、他の家族と、家族の“あり方”や“やること”を共有することってそんなに多くない気もする。もっと自由で開けていていいのかなとも思う。同じようなことを教わり続ければ、それが普通や常識となり、柔軟性や創造性は失われてしまうのではないかなとも思う。SOKOAGECAMPでも1週間いろんな人と暮らすし、僕自身もここ10年くらいはいろんな人とシェアハウスで暮らしているので、日々自分の中で培われてきた当たり前は壊れていっている。学びも暮らしも働きも、自由に選べることは、人がよく生きることと関係があるんじゃないかな。そして家も学校も会社もお国もいろんなところで繋がっているから、その集合体が社会なのかと思うとちょっとわかる。
なるほど。つまり、社会を構築する暮らしや仕事の常識や不具合に違和感があるということと、なにかを社会のせいにして自由に選べていない状態にも違和感があるということ。そういうことを考えていたようです。笑 後者は自分も思考停止してそういう状態になることがあるし、選べないように見せる圧力がかかる時もある。そういう時は自分に違和感を覚えるから。

斉藤祐輔

自分の「正しさ」で戦わない

子どもの頃、最初に感じた違和感は、自分のあたりまえの普通の生活が全然当たり前じゃない…という事。戦争や、自然災害や、飢饉や、環境汚染や、経済格差や…普通の暮らしは、誰かの不幸せの上に成り立っているかもしれない。そして命の危険も感じずに、当たり前にご飯を食べて、当たり前に学校に行って…という生活は世界の中では当たり前ではないという事に気付いた時に、自分の「当たり前」が足元からガラガラと崩れていくような感覚がありました。
今は、もっと身近なところに違和感を色々感じる事が多いですが…多すぎて…。よく、矢部から、社会に中指立ててるよね。と言われます笑
その多すぎる違和感は自分の「正しさ」とか「正義」から来ている感じがあります。必ずしもその「正しさ」がみんなの正しさではないと思うので、まずは自分の中で違和感を取り扱って、出来る事をやってみる。私の中の「正しさ」は全然完璧じゃなくて、穴だらけだから他人には求められなくて…そこが違和感を沢山抱えていてもどこかにはぶつけられない弱さですね。あくまでも身の回りで、出来る事をやる。しか出来ない。
世界の課題ってどうも極端で、どっちかにつかないといけない感じありませんか?誰かの「正しさ」が理論武装されている感じ。間を取ろうとすると、どちらからも責められる的な…それがとても居心地悪い。人間ってすごく不完全で弱い存在だと思っているので、その不完全さをもっと愛せたらいいな。右でも左でも、上でも下でも良いんだけど、自分が良いなと思うあたりを選びとるという事自体が難しい事がまだまだあるので、そういう選択の自由みたいなのはもっと広がってもいいかなあ。
自信がないながらも、自分の「正しさ」だけで戦おうとしてしまう時が私にもあるので、振り上げた拳で、相手を抱きしめる位の度量が持てたらいいなと思っております。

横山沙織

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